人の道?!

物には言い方があると思う。
どれだけ正しいことでも、聞くほうの耳に痛い言葉を真正面から言われて逃げ場がないと、言われたほうは辛い。こういう場合、言ったほうは気が付いていないし、言うことに誇りを持っているし、逆に割と自分が正論でズドンと突っ込んで言われても平気なのかもしれない。相手の気持ちを考えない言葉は、刺々しくささくれだって人を痛めつける。

なぜこうなるのかは、お互いに相手の人となりを認識し合っていないから。厳しい一言を放つ人でも、解り合えるとそんなにひどい言い方はしなくなる。

たちの悪いのは、先ほどの、厳しい言い方であることに気が付いていない人。自分が窮地に陥ったことがないのか、もっとすごい窮地に落ちたことがあったのか。




物には正しい受け止め方があると思う。人は他人のことをあれこれ言うものだ。よいことも言ってくれるが、悪いことのほうが多く聞こえてくる。また、なんでそういう態度なんやと感じることもある。

しかし、それらをすべて自分に対する悪意や嫌味ととらえている内は、実は「自分がすべて正しい」と思っているからに他ならない。悪意や嫌味の中には、もちろんそのままの悪意はあるかもしれないが、自らに対する厳しい一片の真実をそこに含んでいると思う。

悪意の部分を取り除いてその厳しい一片の真実を取り出し、それに正直に、素直に向き合うことができるかどうか、
それをすることが、自分を変え、向上させ、深みのある心をもつことになると思う。

このことを意識して、意識して、意識して、自分に言い聞かせて、人の悪態を受け止めること、それが良い受け止め方というものだと思う。




人には役割というものがあると思う。会社で言うなら、私は役職者ですが、私という人間そのものが役職なのでなく、
仕事上の役割がその役職なのである。なので、役職者らしくふるまうこと、役職者らしい言動が求められることになる。

役職のない人でも、**クラスであるとか、○○担当とか、XXのアシスタントなど役割がある。その役割らしい振る舞い、言動が求められているはずである。

では、その求められているものは何か、それがわかっている人と、わかっていない人とがいるように思う。会社としては、就業規定や査定の規定にそれらを書いているが、抽象的である。であっても、やはり理解できている人と、どうも理解できていない人とがいるように思う。

理解してもらうのが、役職者の仕事の一つだ、ということは確かですが、それが理解できるベースのあるなしは、その人による。また、理解できていない人は、損だなと思う。

みんなで一緒の仕事をする、という風にアットホーム的なように言うことがあるが、それらは、役割の分かった人の集まりとしてであり、求められている振る舞いや言動が理解できないとうまく回らないし、うまく入り込めない。

一方で、誰もが完全に理解しているわけではないのも事実であると思う。ただ、湧き上がる感情に任せて行動するよりは、求められている理想像に近いように振る舞うほうが、良い結果をもたらすことは確かであると思う。

2009/2/22 の日記より。



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